私はほんとに厭だ、ほんとに――。どうしても拵えなければ駄目なの?」
下を向き続けて赤味の上った顔を擡げながら彼は板を持って卓子の前に来た。
「若し誰が上っても拘(かま)わないなら拵えないで好いのですよ。けれども若しそれが厭ならどうにかしなければ仕方がないでしょう」
「それはそう。だけれども厭だとはお思いなさらない? もうさっきああやって、私共が気が付いたことが分ったんだから、もう気が引けて止めはしないか知ら」
「そんな敏感なら始めからやりますまい。どんな人間だって心を持っている者は、こんなことをしたいと思うものですか、けれども考えて御覧なさい、留守の間に子供達に部屋中掻きまわされたり、好い気になって下の連中が時を拘わず勉強しているところへやって来られたとしたら、お話にもならないじゃあありませんか? そうでしょう」
それはもちろんそうである。たださえ彼等の饒舌と、好奇心に僻易(へきえき)しているのに、若し万一上と下とが流通になって、賑やかな女連が、何を書いているのか、面白い字を書くものだなどと寄って来られてはほんとにどうにも仕方のないことになってしまう。
気分が単純なだけしたい放題にさせて置くと図に乗って何をするか分らない。私がいない間に、大切な机の上をいじられたりすることを思うのは、たとい想像だけでも充分に私を脅かさずには置かないことなのである。
ほんとになぜ人間は、純粋に他意なく心から心へと響きわたらないのだろう。なぜ光り動く直覚がないのだろう。なぜもっと触手ある感覚がないのだろう。
こういうことに逢うと私は苦しまずにはいられない。私の性格として、あっちがああ出るならなに拘うものか、こっちもこう出てやれという考えかたは出来ない。そして私の心の中には二重の苦痛が湧くのである。
第一、そういうことに度々逢って渋い思いをしなければならない世の中というやや抽象的な愁しさ。それと同時に、自分がかなり純粋な心で対していた者が、平気でそれを裏切って、私に苦々しい幻滅を味わせずには置かないこと、その幻滅が、何千人の人間の魂から「ありたい」という尊ぶべき望を殺戮(さつりく)してしまっただろうという恐ろしい回想。
まして、ふだん侮蔑されたり、疎外されたりしている彼等は、私がその札を出すことの原因を、単に彼等がユダヤ人だからという動機にのみ置きはしまいかという心苦しさが、一層私に辛い心持を与えるのである。
これ等の思いを一面から見れば、ただ私自身のお人好しの理想や空想の惨めな没落を悲しみ嘆いているのだともいえよう。しかしそれとまた同時に私のうちには、彼等自身のために彼等の背後に立ってそれ等を寂しく眺めやる心持もあるのである。
彼等がユダヤ人でなかったら、そんなことはしないかも知れない、がしかし彼等はした。して何か「いやなもの」を痛感させる。その目前に突出される「いやなもの」を跳び越せない自分は、それに溺(おぼ)れないために何かしなければならない。
いつも私がこうありたいと思い、こうあるべきだと確信して致したことは殆ど十中の八九まで、事実において「そうではなく」なる。さながら見えざる律のように的確に、反対の現象となるのである。